わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。
わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。
ヨハネの福音書 十四章二十七節
あなただったら、明日には別れを告げなければいけない大切な人に、最後に何を話すでしょうか。
思い出話、いっしょに歩めたことの感謝、忘れないでという願い、そして再会の約束。
大切な人であればあるほど、ありったけの言葉で自分の気持ちを伝えようとするでしょう。
ヨハネの福音書には、イエス・キリストが十字架にかかる前の晩に、弟子たちに語って言われた内容が記されています。
「わたしがあなたがたの足を洗ったように」
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」
「父はもう一人の助け主をお与えになります」
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」
「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」など。
今まで多くの信仰者が親しんできた素晴らしいメッセージです。
その中で、イエス・キリストが何度か口にされたのが「平安を与える」ということでした。
弟子たちのもとを去っていくにも関わらず、です。
なぜこんなことがいえるのでしょうか。
キリストが与える平安は、何の問題も困難もない、という平穏な状態を指すのではありません。
むしろ、「あなたがたは、世にあっては患難があります」とさえ言われています。
もしかしたら、あなたもさまざまな困難に直面し、恐れや不安、疲れを覚えているかもしれませんね。
しかし、安心してください。神があなたを見捨ててしまわれたのではありません。
現実がどんなに厳しくても、なお大いなる神を知り、助け主を与えられ、本当の救いを手にしていればこそ与えられる平安があります。
イエス・キリストは、弟子たちがこの平安を手に入れる道を開くために、これからまさに十字架にかかろうとしておられるのでした。
三月の礼拝では、救い主を知る平安についてご紹介します。
あなたにもキリストの平安がありますように。
期待してご出席ください。
どなたでも歓迎しています。
(月報誌「シャローム」 2008年3月号 巻頭言)

