しかし、水を汲んだ手伝いの者たちは知っていた。
ヨハネの福音書2章9節
少し前の話になりますが、イラク日本人人質事件の時のことです。三日と期限を切って、殺害すると国が脅迫されたのは、恐ろしい事件に初めて日本が巻き込まれた経験です。私はとにかく助かってほしいと願いましたが、とうてい解決の道があるとは思えませんでした。祈ることさえ忘れて、弱弱しい祈りの声をあげられるのに三日もかかってしまったのが実情です。この方たちは、国と外務省の必死の努力の結果、無事釈放されて、帰国されました。誰もが知るとおりです。
無論、この釈放が私の祈りの結果だというつもりは、少しもありません。自分で祈っておいて、不信仰のようですが、そう言うにはあまりにも弱い祈りでしたし、それほど大胆な確信もないのです。ただ、祈った結果として、私自身に影響が残ったことは事実です。つまり、不可能だと思えることに対しても、祈る勇気が与えられたような気がするのです。
前掲の、ヨハネの福音書のことばは、イエス様がカナの婚宴で水をぶどう酒に変えた奇跡の記事です。水がめに水を満たすようにといわれて、僕たちは水を汲みました。その水をイエス様はぶどう酒に変えたわけです。婚宴に出席していた人々はそのぶどう酒を飲みましたが、それがどこから来たかはしりませんでした。
しかし、水を汲んだ僕はどこから来たかを知っていたのです。彼らは、イエス様の奇跡を経験したのです。ぶどう酒を飲むという恵みはすべての人が受けましたが、神の力を知っていたのは、キリストと共に労した僕だけだったのです。
私たちは、どのようにして、キリストと共に労し、神のみ力を経験することができるでしょうか。それは、祈り。祈りこそが、神の力を知ることのできる一番の近道ではないでしょうか。
伝道師 背山藤枝 (シャローム2004年7月号)

